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2008年10月28日

ランキング参加やめます

このブログを読んでくださっている皆さんへ、

私はこの記事をもって、ブログ村のランキング参加をやめることにしました。

理由は、「統合失調症」で1位になってからずっと、本当に多くの方々が読みに来てくださって、これはいい加減な記事をかけないな、といつのまにかプレッシャーになってしまったからです。
「書きたい」から「良いものを書かなければならない」に変わってしまったのです。

ブログ自体はやめません。ブログ村にも残ります。
これからは肩の力を抜いてゆっくり更新してゆきたいと思います。
「統合失調症」と「野々花」で検索していただければ、検索エンジンでも見つかると思いますので、どうぞいらしてください。

これまで読んでくださってありがとうございました。

最後に、相互リンクを希望される方、お声をかけてください。

野々花でした。

(この記事はここに一週間ほど残しておきます。)

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2008年10月27日

過去を見つめなおす

過去を振り返ること。

多かれ少なかれ、長く重い統合失調症の歴史を背負っている人々は、振り返ることさえできない辛い記憶があるだろう。
私もその一人だ。
そして今、ぽつりぽつりと過去を語ることが出来始めている。

なぜ、トラウマともいえる過去が、過去のもとして自分の中で整理され、消化されてゆくのか。
それは、人が記憶を再生するとき、それが時の経過とともに歪められ、個々の細かい情報が忘れられ、
思い出すときに、物語となって再構築されるからだ。

再び生きると書いて再生という。

「再生」を辞書で引くとこんな意味がある。
衰え、または死にかかっていたものが生き返ること、
心を改めて正しい生活に入ること、
再びこの世に生まれること。
そして、特に認知心理学では、様々な手がかりをもって出来事の記憶を手繰り寄せ、思い出し、それを再現することを再生という。

過去を綴り再現する作業は、過去を整理し「再び生きる」ために必要なプロセスなのだ。
たとえどんなに時間がかかったとしても。

だから私は書くことを試み続ける。

posted by 野々花 at 09:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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引越し

いよいよ明後日は引越しだ。
結婚して一年半暮らしたマンションを後に、私と夫は小さな一軒屋に越すことになった。
私の介護をしやすくするため、実家の近くに移るのだ。

ちょっとした引越しブルー。
山積みのダンボールを見て、ではなく
子ども部屋のない、二人暮らしジャストサイズのこのおうちの設計を見て。

リビングに寝室、PCルームの2LDK。予備の部屋はない。
素敵なおうちなのだけど、やはり子どもを諦めた二人の人生コースがここに引かれている。
生涯二人きり。
それを突きつけられる。

通院の帰り、電車の中で赤ちゃんを連れたお母さんを見た。
はつらつとした笑顔で赤ちゃんに話しかけるお母さんの腕はがっちりと太く、温かで大きな母性が溢れていた。
私にその生命力はない。
産んで育てることはできない。
だからわかっている。子どもは諦める。

けれど、叶わずとも、一縷の望みを残しておくのとないのでは全然違うのだ。
もし元気になったら・・という可能性を持っていたかった。
わかっていても産めないと断定したくなかった。

産めない女。

高望みしちゃいけないのは、わかっている。
病状が落ち着いているだけで感謝せねば。
だが、人間は欲深いものだ。
一つの平穏を得ると更なる幸せがほしくなる。

けれど、この断罪は半端ない。

posted by 野々花 at 08:27 | Comment(3) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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ある日の通院

口紅を差す。
ストレートボブの髪に整髪料をつける。
グレーのICBのカーディガンを羽織る。
今日は通院日だ。

この病気になって、外見には人一倍気をつけるようになった。
せめて外見くらい人並みに装って、惨めな思いをしないように。
億劫になって退廃的になるのは嫌だ。
それを見る夫はもっと嫌だろう。

ヒールの高い黒のパンプスを履く。
雨の日の今日はラインのきれいなトレンチコート。

準備完了。
中身がグダグダな私は、颯爽と歩く。
ヒールの音を響かせて。

診察もスタイリッシュ。
無駄口は一切たたかない。

「どうですか、調子」

「先週エビリファイ増量してから一週間程度で、幻覚症状がきれいに治まりました。抑うつも改善がみられたと思います」

どうです、この無駄のなさ。

「具体的にはどんな感じ?」

「果物を買いに行くという目標を設定してスーパーに行けたんです。意欲をもって自発的に外に出ることができました。」

「買い物、できる?」

「短時間ですが」

以上。

理詰め頭のこの医師は、涙や叫びを好まない。
感情の言葉は伝わらず、論理的に話すと上手くいく。
だから私も頭脳戦。
無駄を排して、首尾よく診療を終えるのだ。

外見を取り繕い、効率的診療を受ける通院日。
この日だけはスタイリッシュ。
救いようもない暗闇に落ち込まないように。

posted by 野々花 at 07:05 | Comment(1) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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2008年10月26日

バフチンという文学者の話

今日は文学研究についてのお話です。

ミハイル・バフチンという文学者は、小説というジャンルの特性をポリフォニー(多声性)ということばで説明しています。一応文学研究者である私は、ふとそのバフチンのことを思い出したのです。

小説の語り手は一人であるにもかかわらず、登場人物同士がみんな独立した意識をもって会話や行動をするという、多視点的なところがドストエフスキーの小説のすごい特徴なんだと。
登場人物の自律性。
こんなことを「文学理論」と称し、ポリフォニー(多声性)について議論しているのです。

でもね、言わせてもらえば、統合失調症の幻聴って、この格調高い「文学理論」をあっさり体現しているよ。

「ポリフォニー(多声性)」がドストエフスキーの特徴なら、自律した声が飛び交う幻聴に悩む患者は皆、偉大な小説をつくっているも同然。

ポリフォニーですよ、皆さん。格調高い言葉ではありませんか。
今度診察に行ったら「頭の中がポリフォニーです」と言ってみようか。
あんまり格調高くてお医者さんもわからんかも。

以上、冷やかし文学論でした。

posted by 野々花 at 08:00 | Comment(1) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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2008年10月25日

遊ぶこと

最近、遊ぶということを覚えた。

生まれてこのかた、勉強するか、病に臥しているか、恋人とくっついているかのどれかしかなかった私。主婦二年生にして、遊ぶということを覚え始めた。

まずはゲーム。
ファミコンなど触らせてもくれなかった子ども時代の反動か、
はまった。主人との対戦がこれまた面白い。

ときどきファーストフードを食べに行く。これも実はレアな体験。
育ちがよいのか?
夜にぷらりとコンビニで立ち読み。夜に出歩くなんて実家では
ありえず。結婚してよかった・・

考えてみれば、苦を避け楽を求めるという、人間の基本的欲求が私には欠けていた。
喜びは知っていても、楽をするということを知らなかった。
欲求を抑圧し、ストイックに生きることが得意。
だからこれと言った趣味、娯楽の類を知らなかったのだ。

休みの日は楽して遊ぶ。
夫から学んだ大切なことの一つだ。

やはり生涯、勉強は好き。新しいことを学ぶのは人生の醍醐味。
けれどもっと遊ぶことを知ろうと思う。
遊びの要素って、とても大事なことのような気がするから。

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2008年10月24日

生きている実感

無為に時が流れてゆく日々を脱出し、毎日を意味あるものに
しようとあくせくする。

引きこもっていた自分を無理やり外へ連れ出した。
果物を買うという目標設定をして、いざ一歩外へ踏み出した。

すると

「ああ、秋風が吹いている」

知らなかった。
日差しが柔らかく、緩い傾斜は運動不足の私の足に少しきつい。
少しめまいがしたが、気持ちがいい。

いつものスーパーではなく、果物の安い市場へ行く。
豊水梨が安い。柿も。ついでに魚を見た。

「このサバ二枚おろしにしてください」

大きな声を発する。久しぶりの自分の声に驚いた。
板前さんは仲間と話しながら三枚におろした。

「あ、いけね、これ二枚おろしだったね」

「いいんです、いいんです。」

私も板前さんも笑った。

「骨、いるかい?」

私は笑って手を横に振った。会話が嬉しかった。

生きるってこういう日常の断片の集まりなのだ。
ずっと引きこもっていて忘れていた。笑うことも。

今日は少しだけ意味のある日だった。
私、ちゃんと生きている。
その実感は、以外と些細なところにあった。
毎日、生きているという実感を、どこかに探そうと思った。

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2008年10月23日

病気の社会的認知

神経症、うつ病、抑うつ状態、そして統合失調症。
私の診断名はこの10年でいくつもの変化を辿ってきた。

十数年前、何かおかしい、何かおかしい、といくつもの診療科を
廻り、検査を受けたことがある。だがどこにも異常がない。
挙句の果てに言い捨てられた。

「あと行くなら精神科でしょうね。」

激怒した。

「私は狂人か!」

精神科など自分の行く場所ではないと一蹴。
精神科という領域は、それほど敷居の高い時代だった。

めでたく精神科の門をくぐったのは、20歳の春。
初めの診断は、うつ病だった。

当時、うつ病といえば、名前を聞いたことがあるというくらいで、
どんな病気かなど知識はない。社会的認知は皆無に均しい。

ここ数年、「うつ病なんです」と言えば、たいした偏見もなく、同情の反応が返ってくる。ずいぶん患者も居心地が良くなったものだ。
病気に関する情報も溢れんばかりに飛び交い、皆が注意を呼びかける。

その昔、私は勝手に薬や通院をやめ、病気のまま留学をした。
無謀な行動。
けれども、一般向けの解説書なども書店に置いてなどいないし、周囲にも危機意識がない。そんな時代。
無知なばかりに症状が悪化したのは言うまでもない。

病気の社会的認知。
これは、統合失調症患者が社会の中で生きてゆくための死活問題である。
自分も社会も「知らない」というだけで、病気を放置し、悪化させる悲劇があってはならない。

posted by 野々花 at 06:50 | Comment(8) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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2008年10月22日

花の絵

苦しいときに絵を書くことがある。
なぜか、それらはいつも花の絵である。
入院中に書いた無数のバラの絵は、すべて花が下に、根が上に来るという奇妙なものだった。
花ではなく、根がはびこるように繁茂し、茎は身をよじるようにうねっている。
 
最近、また花の絵を描いた。
当時に比べると、「正常な絵」に近くなっている。

ムンク(彼も統合失調症だった)は、「叫び」を制作するのに、叫ぶ人の顔を正面から書けるようになるまでに何度となく描き直したそうだ。
私の落書きなど比較にはならないが、私もまた、花を正面から描けるようになるまで時間がかかった。

どうしても花が横を向いてしまう。

yoko_hana1                   yoko_hana2

そしてやっと、正面をむいた花が描けた。

shoumen_hana

この花を真正面から描けた時、私の精神状態が変化した。
この絵はまだ茎や葉の部分が横を向いている。どこかでよじれている私がいる。

絵は人の精神状態をよく映す。

posted by 野々花 at 06:32 | Comment(3) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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2008年10月21日

忍耐の時間

長い、長い、癒えてゆく時間。
今日も家事以外、何も出来ずに日が暮れてゆく。

無為に時間だけが流れてゆく。
このままで人生を終わりたくはない。
このまま歳を取ってゆくだけなのか。それは嫌だ。
はがゆくて焦れども、いらいらをぶつける対象もない。

社会との接触がしたい。
自分のもつ能力を社会で発揮したい。
諦めなくてはならないと言い聞かせてはいるけれど
いかんともしがたい、この気持ち。

それでも、今この瞬間も、癒えてゆく途上にあるはずなのだ。
回復は目に見えないが、確実に前進しているはずなのだ。

焦っては自らを諭し、
焦っては自らをなだめる。
そんな毎日―

苦しい時間。
きっとたくさんの患者が同じ思いで時を過ごしている。

だけど負けちゃいけない。
じりじりと迫るこの焦燥に、耐えなくちゃいけない。
それが闘病というものだ。

posted by 野々花 at 07:10 | Comment(4) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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2008年10月20日

世間の関心

障害や福祉って、世間の関心の薄い分野だなと思う。

テレビ、新聞、インターネット・・・
日々、様々なメディアでたくさんのニュースが流れるけれど、障害者の生活にかかわる記事に目を留める人は少ないだろう。

特にインターネットは、情報が溢れている。けれど、自分の得たい情報だけをピックアップして、自分と関係のないニュースにはタッチしないのがネットの特徴だ。

社会全体で考えなければならない福祉に関するニュースなどが、知れ渡らずに世論を素通りしてしまう。

たとえば自立支援法。
二年前に、精神保健福祉法32条が自立支援法に変わった。市税の納付額で適用範囲が狭められ、私は一時適用外となった。けれど、自立支援法が成立するとき、世間はいかほどの議論をしただろう。

障害者手帳。
今、私の住む市では交通費助成制度の見直しが検討されている。1級や2級の障害者の交通費助成額を減らし、3級に助成の枠を広げるというもの。全体として、市の財源負担が減るのだ。
タクシーがなければ通院もままならない2級の私にとって、これは大問題。
しかし、この制度の変革をどれだけの市民が知っているだろう。

障害年金の記録を見て気がついたこともある。
過去十年間、支給額が徐々に減額されている。一人当たり数千円。こんなところから国は財源を確保しているのかと思う。

皆の知らないところで、福祉の制度が変わってゆく。
福祉を必要とする弱者だけが声を上げても、その声はあまりに
小さい。

posted by 野々花 at 06:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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2008年10月19日

勉強

エビリファイを24mgに増量して一週間。

postpsychotic depression(精神病後抑うつ)ですね、と言われたこのあいだの診察から、劇的に体調が回復している。

ただ無為な時間が過ぎてゆく苦しい時期が終わるのだろうか。
好きなこと、やりたいことが出てきた。
やっぱり勉強がしたくて、しょうがない。紀伊国屋に行った。
買った本がこれ。認知心理学の入門書だ。


ninchigengogaku

自分の病気、自分の身体に起こっている現象を把握したい。
特に、思考が飛躍するという経験を理解したいのだ。

字も読めない時もある。でも読めることもある。
いつまた床に臥すかもわからないから、今は限られた時間とエネルギーを心から好きな勉強に使いたい。

限られた環境にいるからこそ、それが貴重だということがわかるものだ。

posted by 野々花 at 17:38 | Comment(2) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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祈ること

寄せられたコメントを読んで考えさせられたことがある。

「宗教ってコワいですよね」

ああ、これが日本人の発想なのだと。
私も例外ではないが。

実際、オウム事件以来、宗教といえば相当ネガティブなイメージが抱かれるようになった。様々な新興宗教があり、中には「コワい」ものも沢山あると思う。

だが、般若心経の写経をしたり、ヨーロッパの神学を思い出すと、やはり原始宗教は偉大な思想、哲学であると感じる。

日本人は「祈り」の意味を知らない、と誰かが言っていた。
神様に願い事をするのが祈りじゃないのだ、と。
私はそんなことはないと思う。
無心になり、ことばを失して何かを一心不乱に願うことも、
それは祈り。
必死の祈りも、静かな祈りも、神聖で神的な行為でありうる。

確かに、宗教の勧誘や集団には違和感がある。
祈るなら一人で祈れと言いたくもなる。
教祖を崇めるなど、偶像崇拝にも賛同できない。
神は心に宿るもの。人は皆、無の境地に神を得る。
自分の神を人に強要することにも、私は反対である。
祈りは、真の孤独の中で、神と対峙する行為だから。
言葉を失する静謐さのなかに、祈りの本質がある。

これはもう無神論じゃないな。
私なりに神というものを心に抱いているのかもしれない。

posted by 野々花 at 05:46 | Comment(4) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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2008年10月18日

ことば

書くことば。
それは無言の発話である。 

私は病気のために、自らの人生に大きな部分を占めていた
音楽、そして言葉の学問からも離れることになった。

けれど。

私は今、ことばで音楽を奏でようとしている。
ブログという、リズムと意味と行間でできた文字の連なりを、
「ことばの音楽」に仕立てようと試みている。

誰一人相手がいなくとも奏でることのできる、静かな音楽。

新たなる道はいつも、逆境のなかで生まれるものだ。
八方ふさがりの私の人生に新たなる何かが見え始めている。

書くという行為。
その中に、希望の光が垣間見える。

posted by 野々花 at 09:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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2008年10月17日

周囲の支援

統合失調症は、日常生活に支援の必要な患者が大勢いるだろう。
私は30歳で結婚するまで両親と同居。そして、結婚してからは、実家から車で一時間も離れた場所に夫と二人で暮らしている。

家事は何とかできる。しかし、買い物に行けないことは多々あるし、病状の重い時は家事すらできない。

長い闘病生活のなかで本格的な幻覚に悩まされたこの半年間、周りの人々は支援体制づくりに奔走してくれた。

そして支援を受けやすくするべく、私は近々、実家の近くに移り住むことになった。

人が手を差し伸べてくれる。
ありがとうなんて言葉では言い表せない。
心の中で皆に頭を下げて、祈るだけだ。
この病気になって、周りの有難さがわかる。
人と人のつながりも密になった。

身近な人々の理解と支援は、患者にとって何より必要なこと。
それを受けられるか否かが、患者の人生を左右する。
知り合いには、家族にさえ見離され虐げられている人もいる。

だから、切に願う。
どの患者も、最大限の援助が受けられる社会であってほしい。

そのために、私たちは何ができるだろう?

posted by 野々花 at 08:05 | Comment(3) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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2008年10月16日

医学の限界

医師に診断書を書いてもらうといつも、身体合併症の欄に「アトピー性皮膚炎」と書かれている。

私は生後3ヶ月からずっとアトピー(30年前にはまだアトピーということばがなかった)を患っている。精神的な要因もあるようだが、診断書にアトピーを統合失調症の身体合併症と書くとは、すごい主治医である。証明する学説でもあるのだろうか。

このアトピーにはずいぶんと悩まされた。
15年くらい前、肌のがさがさを通り越して、頬からリンパ液がにじみ出るようになった。炎症が進行し、片方の頬が腐ってえぐれたようになった。通っていた近所の医院で言われた。

「症例もない。今の医学ではどうしようもありません」

この言葉を医師から聞いたのは人生で三度ある。

重度の抑うつ状態で閉鎖病棟に入院したときも、難治性うつ病との診断が下された。
医者からこんな宣告を受けることは辛いに決まっている。しかし、絶望して死ぬわけにはいかない。
私は生きるのを諦めなかった。
だから、統合失調症の告知を受けて障害者になったことも、治る見込みが少ないと言われたときも、それほど大きな衝撃は受けなかった。慣れたのだ。

生きてやる。
生きてみせる。
それは意地でもなく、見栄でもなく、単なる不可避。
人は強くなる。
限界を見せられたときこそ、それを乗り越えたくなるものだ。

posted by 野々花 at 08:04 | Comment(5) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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2008年10月15日

病気の名前について

ネーミングが悪いな、統合失調症(分裂病)は。
名前で損をしている病気ナンバーワンではないだろうか。

精神分裂病といえば、誰もが聞いたことがあり、概して否定的なイメージが定着している。
狂人?
危険人物?

この恐ろしげなイメージを払拭しようと、名前は統合失調症に変更された。しかし、これもなにやら意味が不可解だ。古くからある強い偏見が消えるのならそれに越したことはないが、病気のイメージがかえってうやむやになり、病気の理解にはマイナスだ。

精神病という呼び方も、まるで人格が破壊され、人間たることを否定するかのようだ。呼び方をひとつひとつ変えることで、人々の意識もずいぶん変わるだろうに。

私はこの病気を心や精神の病気ではなく、脳神経あるいは脳機能の障害と表現されるべきだと思う。

こうした表現が定着すれば、患者も患者を取り巻く人々も、より客観的に病気を認識、理解し、共存することにつながると思う。

病気の呼び方ひとつとて、社会からの視線にかかわる。
社会の中で患者が生きるために、病名はおろそかにできない。

posted by 野々花 at 06:42 | Comment(5) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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2008年10月14日

頭を休めるとき

幻覚などの激しい症状が治まった後、過活動になっていた脳が疲労をとるため、一定期間の休みを必要とする。
今はその時期にあるのだと主治医が言った。

そうか、脳を休める時期なのか―

家事も手抜き勝ちになり、意欲なく家に引きこもっているのは、何もできない歯がゆさとの戦いである。そんな時をやり過ごそうと、私はあれこれと工夫を凝らす。

ひとつは、なぞりがき、である。
筆ペンをもって、般若心境や百人一首、万葉集の文字を一文字、一文字丁寧に書き、手本をなぞる

頭の中はしんとしている。般若心境などは、意味わからずとも、筆の一はらいひとつとて無下にすることなく、ゆっくりじっくり繰り返しなぞる。

ふと気がつくと、「不生不滅、不垢不浄、(生じることもなく無くなることもない、汚れることもなく、洗われることもない)」、そんな空の境地を説く文言が意味をもって迫ってくる。救われるのだ。

もうひとつは、縫い物。
ミシンを使わず、エプロンなど単純な線を一針、一針縫う。
ただ無心に静けさを縫う。

癒えるときを待つ時間。
それは長い、長い、孤独に似た静かな時間だ。

posted by 野々花 at 08:56 | Comment(2) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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2008年10月13日

小さな世界で

先の留学時代の記事を書いていると、常にグローバルな視野で物を見ていた頃が懐かしい。
常に世界情勢を把握しようと欧米の新聞を読みあさっていた
「現役」のあの頃。
今はただ、自宅のひっそりとした部屋で療養している。

病んでいたことには変わりないが、今はあの頃と違う。
世界で何が起こっているか、それは自分とあまりに遠い。 

しかし、大きな世界の中で闘っていた苦しい時代があってこそ
小さな日々の幸せに充足する今がある。
誰かが言っていた。

Think globally, act locally
(思考は広い視野で、行動は足もとで)

大きな世界にはもう戻れない。
けれどその存在を知りながら、あえて自分の巣のなかで小さな
営みをこつこつと続けてゆく。
それが生きる者の誠実というものだ。

posted by 野々花 at 18:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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思い出ぽろぽろ4

収容された病院の建物は相当に古かった。
留学生活を終える一週間前、力尽きて未遂を起こしたのだ。
窓からわずかに見えるレンガの壁にはツタが一面に生えていた。

60年前、ここで何が起きていたのだろう。
ヒトラーが精神病患者を皆殺しにした歴史を思い、ぞっとした。

ここの看護師は皆、患者同様に平服だった。
白衣を着ていた一人の女性医師がダイアナ妃のような面影をしていたのを覚えている。

入院して四日間、私は四人部屋の閉鎖室に閉じ込められた。
パイプベッドが四つ、そしてトイレがあるだけだった。
食事にはパンにハム一切れが入った皿を渡された。寝過ごすと食事は当たらなかった。

隣の患者が鉄格子のはまったドアを叩き、しきりに叫んでいた。

「出してくれー、出してくれー!」

隣の別の患者がつぶやいた。

「ここは牢屋だ」

私はおとなしくしているのが、ここを抜け出す一番の近道だと思い、じっと動かなかった。

五日目の昼。
私は「牢屋」から解放された。看護師が薄らと笑みを浮かべて送り出してくれたのを覚えている。
二人部屋をあてがわれた。同室の老女は数十年ここにいるという。
患者は皆、表向き普通と変わらなかった。
廊下をすれ違うたびに「コンニチハ」と手を振る陽気な外国人がいた。そのたびに皆がくすくすと笑い声をたてた。

私は一刻も早く帰国するため医師に面談を求めた。
日本のシステムと違い、医師に面談が要る者は、決まった曜日に面談室に行き、順に並ぶ必要があった。私も廊下に置かれた椅子に腰をかけ、順番を待った。
隣には、イタリアから来たという若い留学生がいた。

「何をやったの?」

「薬さ」

こんな場面が、微細なやり取りまで記憶に鮮明に残っている。
もう8年が経つというのに。

私は薬が抜けきらない状態で、医師は急ぎの帰国を反対した。
そして交渉に交渉を重ね、私はなんとか、前もって買ってあった飛行機の日時に帰国することに成功したのだった。

こんな奇妙な留学生活を送った人もそうはいるまい。
異国の貴重な医療現場体験であった。

posted by 野々花 at 08:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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